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知恩院御影堂
子供の手本にならんか、わたしの絵
無芸大食一筋にわれながら飽き飽きしてある時から自己流の絵を描き始めた。特に旅行の時に切り取ってもって帰りたい景色に出合ったとき俄然意欲がわいてくる。
こう見えたからこう描いたという感触は消えることがない。絵を見返すといつでも、その場に戻ることができる。
枚数が増えたのでこの際、何枚かを絵葉書にして知り合いに折に触れて挨拶代わりとした。反応が面白い。
「ほう、君が絵を。絵を描く人は視野が広いはずだがな?」なるほど。そう見られていたか。小学校の先生をしている同窓生のも面白かった。一瞬意外であるという表情の後、「こんな隙間だらけの絵は子供の手本にならん。」と一蹴した。
上手下手ではなく律儀一筋、努力の跡が画面いっぱいに表れている、そういう絵や学校生活をよしとして日々がんばっている先生の日常がうかがえた。うらやましい。まだ、若さも力もあるな。でも、力技だけではどうかな?いろんな子のセンスを見逃さないでほしいね
蒼 い 魚
この魚は勢いのある作者だとわかる、老境の作者ではこの色にはならないと評して下さった方がありました。すでに若くはないが壮年には違いない。論語ではないが「七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず」とはなれまいが、そのころにはまた同じ構図で描いてみよう。 魚には、沢山の感情が湧く。その一は、嫁ぎ先に小姑が多かった母が盆に実家に帰った際、外孫の私たちに元教育長の祖父はにこにことやさしかった。大家族の家からそこへ里帰りした母の安堵感、やさしい婆は夜の夏祭りにそなえてわくわくした気持ちを団扇であおいで添い寝をしてくれた。ある日、晩ご飯で、私の大好きな煮魚、弟は当時は魚が嫌い、そちらの方が大きい。「そっちががいい」と。「食い物に文句を抜かすな」祖父の鉄拳を食らった。祖父に叱られたのはその一回限り。
 私は、ずっと忘れたことはない。子供の頃から魚の肝は苦いがうまいと思っている。
魔都・上海の朝
発展著しい上海浦東地区(プードン)。NHKのアジアンワールドの背景にもこのアングルが出ていた。朝、シャングリラホテルの10何階かの部屋からカーテンをあけて驚いた。朝もやに煙る朝日をしたがえて巨大な魔神が何人かこちらを見下ろしている。上海には一説によるといま世界にある起重機の3分の2が集結しているともいわれる。以前、建築中なのにビルの上の方にあちこち灯りが見えるので近づいてみると、その中で建設労働者たちが金属食器で飯をくいながら、洗濯物を干していたのを発見した。地面から涌き出るような恐ろしいエネルギー、ビルは建てられるのではなく生えてくる。今、この絵の金茂ビルはニューヨークテロ事件による世界貿易センタービルの倒壊で世界一の高さとなっているらしい。文化大革命発祥の地、西洋文化との融合の経験、三国志の血の海を飲み込んだ泥の大河。6300キロ、長江の河口の町。井上陽水が「なぜか上海」という歌を悠然とうたう。
「そ知らぬ顔の船乗りさんたち。海を越えたら上海。どんな未来も楽しんでおくれ…・」。
河 口 湖
これは朝の3時半から起きて待っていました。湖面の色や富士の顔も刻々と変わるのですね。夏はほとんど、頭のほうは見せてくれないけど、朝方は雲起こる前なのでお顔を拝見できました。広い、なだらかな裾野の下の溶岩の大地の下に万年氷や樹齢何千年かのヤドリギのような木たちの樹海が広がる。オウム真理教の上九一色村、湧き出る水の底がものすごく深い湧水池とか、おどろおどろしい神秘性も抱えているんだな。
ここの湖山亭の湯が実に快適でした。それと、品のいい美人の女将さんでした。
花     筏
桜の頃は、毎年、私は過労気味で休めるときは休む。桜の名所の写真を恨めしく眺めることが多い。娘と同じ写真を前にこの絵を描いた。句を詠む客人がそれを見て一句。
「子が描けば、川は桃色 花筏」