あるとき、ときの税理士会長から事務所に別件で電話が来た。うちの所属税理士 が出た。さっきの君が跡継ぎなの?って、「いや,わからん」とぶっきらぼうに 答えた。その彼が40代で永眠した。私は密かに愛称をつけていた。就職氷河期に 学卒で大事務所に入って家族と団欒ができないような激務からうちへ転じてくれ た。さすが多様な実務の仕切りをこなしてきたなと私にはわかった。20代には私 と同じような体型だったのに徐々に身体が悲鳴をあげていたようだ。ありがとう。 しんどかったね。先に逝った人のことはずっと忘れない。
今年は家族の事情と初めての経験の難問事例が重なってカロリーメイトの買置き で仕事をこなして山を越えたと思ったら異常を意識して入院した。病床の窓から 夜 阪神甲子園球場でホームランが出ると花火があがる。 差入れのお菓子の裏紙にスケッチして退院後に色をつけた。
これは北側の病室から。こっちからは北摂の山が見える。せん妄のパンフレット をたくさんくれている。 そうか。これは私への注意だったのか。 私は病床で自分の生前葬を夢想して,それをおジャンにして三途の川から帰っ てきた。気掛かりが色々あるのは生きる執念でもある。
明石大橋の上から見えているあれに一度は行こう。目が眩む暑さと光。宗家の三 姉妹のうちの真ん中。孫文の後妻、慶齢は孫文の妻には文化大革命とはいえ粛正 を逃れて国家副主席として天寿を全うした。日本で結婚した後の数奇な運命を想 う。
神戸に来た48年前 中選挙区時代の自由な選挙時代に川崎重工本社前にビラまき に行ったことがある。 周辺から沸いて来るような道を埋める労働者の大群。門限に間に合うか? ザッ クザックザックと速度があがり見事に吸い込まれていく。まるでアルジェの闘い のモリコーネ。今は閑散としている。ここで同時期に苦学して税理士を開業した 彼の自前だったビルがある。潔く店じまいをした彼のビルを往時を偲んで描いて きた。
何度も何度も反芻する情景が付け加わった。 急な入院で世話をかけた看護師さん。 カテーテル、排便、清拭、車椅子に乗せてもらって泣笑いした。退院時には、赤 がよう似合うなって言ってくれた。それから7ヶ月後の検査入院時に覗いてくれ た。414床の大病院でよく見つけてくれた。似た奴おるなって。私を覚えてる か?なに言うか。フルネームまで覚えとる。眼鏡をかけるから顔をよう見せと言 うたら、夜勤明けでボロボロやから見んといてって照れた。 「あれから若い相棒が重病で亡くなって苦しい。でもワシの人生はまだまだ続 く」と手短かにこっちの近況を言うたら「あったり前や」って出て行った。痺れ た。ありがとう。おそらく10秒前後のことだろう。しかし私には永遠の時空だ。 先に逝った人達を思い浮かべて唄う。 病院内は撮影禁止だから記憶でレポート用紙の裏に描いた。 実物と似ても似つかないのはしかたない。